時々空中へ舞ひ上がつてゐる。

好きなものについて考え続け脳内迷子のパラノイア雑記

「春と修羅」祭り。

勢いでスコアも買った(弾けねえのに)。←読めはするのよ

なるほどねぇ。

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ええと。『蜜蜂と遠雷』の映画に使われてた「春と修羅」聴き比べ祭りがしばらく続いておりました。超個人の感想なので、んなこたあないという方もおられましょうが爽やかにスルーしてくださいませ。まだ映画を観ておらず、映画観てスピンオフの『祝祭と予感』読んだらまた感覚変わるのかなとも思っています。.それぞれのカデンツァ(即興部分)含めて作曲されたのは藤倉大さん。そうかさすがに実際に「自由に、宇宙を感じて」即興をそれぞれの奏者にお願いするには至らないわね。奏者の方々は既にある音を再現している形。..マサルバージョン。うむ。マサルぽい。「余白」と、カデンツァでみせる宇宙の「実体」。春と修羅、修羅と名はついているのだけれど濃密なぎゅっと詰まった激しさはないのね。むしろ空虚で。森羅万象すべてのものが存在ではなく現象。日本的、というより宗教的というか。で、超絶技巧をそうは思わせないほどさらっと聴かせる。うむ、マサルぽい。←伝わらない..風間塵バージョン。激しいわね。そして若い。自然の猛威、脅威を「修羅」として表現。うむむ。大きな存在になっちゃってる。宮澤賢治の修羅はそういうのでもないような気もするのだけれど。それは恩田さんの感覚なのでね。「かがやきの四月の底を はぎしり燃えてゆききする」ひとりの修羅であるわたし。「聖玻璃の風」行き交う玲瓏の天の海、その海底に沈む修羅。ね。人間でもない、ひとりの、怒りに燃えた、でもかなしみを青々とたたえた、修羅。あくまでも「個」としての修羅なのよね。この修羅の果てしない思いを表現しているのであれば納得、すげぇハマる、と思う。凄い。..栄伝亜夜バージョン。ぬぬ。あまり修羅をも包む母なる大地は感じられなかったのよ。夕餉の懐かしい匂い、青々とした草原、降り注ぐ光...? 塵への返礼になってるかなぁ。円熟味というのもいまひとつ。どちらかというとまんま若い女性の鋭くて青くて痛いキラキラした感じ。栄伝亜夜のジャストナウって感じ。.うーん、作曲者の母性に対する感覚がそうなのかしら。どこまでも瑞々しいというか。それともただ1人の女性奏者だからってフィルタが作られる時にどこかにかかったのかなぁ。春と修羅、というより、奏者である河村さんにあてた曲というか。やっぱりこれは女性が演奏して成り立つ感はある。..高島明石バージョン。我はこれが一番好きです。春と修羅の「青」、宮澤賢治の心象風景が聴こえてくるのはこちらかなぁ。それを福間さんは明石にとても誠実に寄り添ってる。最も役にハマってる演奏。最後のトリルも耳に馴染む。無数の「青い照明」のひとつである現象としてのわたし。ひとつの生命、その存在が消えてしまったとしても、何か別の現象として「たしかにともりつづける」という賢治の願い。.実は一番宇宙を感じるのもこちら。あー、聴いててなんとなく『未知との遭遇』の交信音も思い出しちゃったので、そのあたりもなんか勝手に天から降ってくる音とか宇宙とかを感じられる要因になってるのかも(何)。あめゆじゆとてちてけんじや。.青。春を迎える喜び、キラキラした青春の青ではなくて。青々としげる若葉でもなく。宮澤賢治の中の青は、明るく灯されている列車の中から車窓を通して見るひたひたとその場の全てを満たすどこまでも暗く広がる青であり、「いま新しく灼いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原」であり。林の緑青、やみよ、水いろの空虚、海蒼のチモシイ。「空は底のしれない洗ひがけの虚空」で。みぞれの降る暗い雲は蒼鉛いろで。そして、とし子の持っていた青。..#蜜蜂と遠雷#恩田陸#春と修羅#藤倉大#金子三勇士playsマサル・カルロス・レヴィ・アナトール#藤田真央 plays風間塵#河村尚子 plays栄伝亜夜#福間洸太朗 plays高島明石#宮澤賢治