時々空中へ舞ひ上がつてゐる。

好きなものについて考え続け脳内迷子のパラノイア雑記

鷗外忌だったのでつらつらと(7月9日記)。

さて。鷗外忌です。今回は読書記録というよりは鷗外のひととなりなどに想いを馳せたりしました。ずいぶんと偏ってますけれど。だらだらと長文雑記です。.森於菟さんは鷗外の長男。『ヰタ・セクスアリス』を鷗外は成人前だったこの方向けに執筆されています。そして「性欲」という言葉を文明の開化した明治の世に新しく紹介し定着させたのは鷗外だったりします。.あくまでも医学的な見地で冷静に自己の欲求や行動を観察していまして、いわゆるエロかったりなんだり女性に対するご無体な言動だったりというR指定ではない淡々とした作品となっています。そして、そこらへんの男どもが常にムラムラと考えているオンナへの欲求があまりにも薄い自分は医学的にどこかおかしいのかしらんと独りごちたりしています。.結婚したら妻を大切にし他に走らないこと と思っています。が、結婚していないのであればいろんな面倒ごとに巻き込まれないようにひとりに絞った付き合いは避けること(風俗だけにしとけ)というような、現代においては「女性蔑視」じゃねぇかと脊髄反射したフェミ嬢から吊し上げをくらいそうなことを言ってるのですけれど。.江戸時代末期から明治に生きていた男性の考える女性というものは現代の感覚からするともうそれは扱いがひどい。そもそも同等ではないという感覚が当時の常識であり、ひとりで生きていくには自分の身体を資本にしなければ難しいいわゆる下層とされていた女性。ドイツ留学を経験した鷗外はむしろ日本に帰国してからは女性の権利や社会進出に肯定的な目を向けているひとでした。.樋口一葉・与謝野晶子への称賛、平塚らいてう主宰の「青鞜」会員に家族がなることも賛成、女性解放運動には応援的立場を積極的にとられています。.あ、鷗外はマザコンだったのではないかと言われてはいますけれど、我が思うにお母さんのキャラが強烈すぎるのと、親への尊敬の念と大切に思う気持ちとマザコンとは少し違うのではないかなぁと思っています。..宮本先生も仰ってましたが、もともと医者の家に長男として生まれ立身出世を強く望まれたいわゆる「良い家柄」出の鷗外は、周囲からの期待を一身に背負い軍医としてですが日本の中枢で生きていこうとし、自分の意見と対立する者に対しては喧嘩上等だごるぁ と論争を仕掛けまくる方でした。.『ヰタ・セクスアリス』が発禁を食らったのも、官僚が何書いてんねん と鷗外を面白く思ってない側からの圧力的な処分ではとされてます。軍医としては頂点の位に登り詰めたのですが、その上に存在している”陸軍”上官との意見の相違や生理的に合わない問題で幾度となく激しい対立をし、何度も辞職を願いでたりしています。『阿部一族』はそこら辺を踏まえてたりするのかしらという説もあります。.「晩年のわずか五年間 鷗外 栄達がのぞめなくなると 急に肩の荷が降りたのだろうか?」「小説家 森鷗外が俄然輝きを増す」.エレカシ『歴史』です。鷗外は1922年(大正11年)7月9日に亡くなっています。1916年に陸軍省医務局長を辞していますが、栄達がのぞめなくなったから というのを補足するとおそらくもうこんな上官の下でやってられるかと本気で思ってたのが頂点に達したのではと思われます。.そして、明治の時代が終わり、1912年(大正元年)の乃木大将の殉死に衝撃を受けてから歴史小説に取り組み始めています。宮本先生はおそらく1912年から5年間に生み出された作品群のことを好んでいらっしゃるのだろうなと思われます。.「ただの男になって死に様を見つけた」鷗外は遺言に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と残し、お墓も「森林太郎ノ墓」とだけ記されています。死ぬ瞬間は「アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス」としています。陸軍の栄典などは固辞する、と。青空文庫にも『遺言三種』が収められていますので気軽に読めますよ。.1911年に書かれた『妄想』、以前postしたことあるのですが、その当時の鷗外の心境がよく描かれていて面白いです。すでに自分を晩年、人生の下り坂にいる者としてこれまでの自己を振り返っています。.そういえば明治時代の作品、やたらと英単語を多用しまくったりしてて現代の我々が一読すると、うはーカタカナ語好きだねぇルー大柴みたいwと思ってしまいがちですが、そもそも「日本語にどうやって訳したらしっくりくるのか・どの言葉を充てるのがよりふさわしいか」を考え続け実践してはやり直しを当時の作家たちが繰り返しチャレンジしていた時代でありますし、新しい概念が西洋から流れ込んできた時代でもありますので、まぁ自然とそうなるのは容易に想像できますよね(喧嘩腰?..#森鷗外#森鴎外#鷗外忌#エレファントカシマシ#宮本浩次