時々空中へ舞ひ上がつてゐる。

好きなものについて考え続け脳内迷子のパラノイア雑記

『言葉と無意識』丸山圭三郎

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『言葉と無意識』丸山圭三郎.ええ。森博嗣副読本です。むっかしに買って自炊したPDFを再読。その昔、講談社現代新書シリーズを漁るように読んでた時期がありました。なんか恥ずかしいわ(何)。.ソシュールとアナグラムで1章書かれていて。あぁ、森先生の記述で「意味なしジョーク」とか、これ何言ってんだろうとかいうやつ、実はアナグラムだったりしてとか深掘りして(そして徒労に終わって)たころもあったわ。脳が若かったわ。ほら。今回も。シルーノベラスコイヤ。これは神話の何かなのか、言葉遊びなのか。クロノスの美しい竪琴...? いや言語ごっちゃやし。..そしてまたバラバラと備忘録を列挙。..言葉とは。「それは光の秩序を維持するための<道具としての言葉>であると同時に、闇の豊穣から立ち昇る<情念の言葉>でもある」「意識の表層における三段論法や演繹にもとづく説得の道具だけではなく、人間と人間、人間と万物の交感を可能にする器官でもある」.「その名を口にすると危険な動物が出て来て害をなすことを恐れるあまり、熊のことを”蜂蜜”(スラブ語)とか”褐色のもの”(古代高地ドイツ語)という仮の名で呼んだ慣習も珍しくない。これはすべて”名が対象と同じ力をもつ、もしくは対象を出現させる”という言霊思想」である。.『ママ、デンシャって人間? それともお人形?』「動くもの、そして柔らかく温かいもの」と「動かないもの、そして固く冷たいもの」というカテゴリによって「人間」「人形」の概念の差を処理してきた幼児のところに、新しく登場した「デンシャ」。この子は混乱し「デンシャは人間か、人形か」と問う。デンシャという言葉を習い、同時にその対象を認識した時、「動いても、冷たく固い」新しい指向対象が誕生する。そして「本能図式は言葉による再編成を強いられる」。.「パトスの位相にあるロゴスは、一切の実体論的二項対立以前の動きであるだけではなく、その差異化自体が、意識的主体の意志によるものではない非人称的活動である」。そこでは、「自/他以前の<onひと>が語るのだが、そのonは能動/受動以前の受動性によって語らされる(パトス=パッシオ=パッション)。とは言っても、主体が雲散霧消するのではなく、それは逆に多様化され複数化され、”私はもう一人の他者”(ランボー)となり、”歴史上のあらゆる人物とさえなる”(ニーチェ)のだ。ロゴスの表層において錯視されていた自我の同一性は崩壊し、デカルト的主体(コギト)によって抑圧されていたより豊穣な自己の世界に人は生きる」。.「彼(ソシュール)の考えた<体系(システム)>とは、個々の要素が相互に関わりあっている総体ではあっても、個は自存的実体ではなくて他の個との共存と全体との関連によってはじめて存在する関係態なのである。私という個人も、社会・歴史的な関係の網目の産物としての間我にほかならない」。.ヴァレリー「自我と個性」より。主体の非人称化や複数化。「私の内部の言葉は不意に私を襲い、私はそれを予見できない。それが語るとき、私は自分をその語り手とは呼びえず、わたしはその聴き手になってしまう。自我とは内部の言葉の最初の聴き手なのだ」.ユングの集合的無意識。既視現象、既知現象。.「人間は言葉によって『今、ここ』という時・空の束縛からのがれ、『約束する動物』、『嘘をつく動物』となった。言葉とは、五感を包みこむと同時にそこからはみ出したもう一つの器官なのである。」..#読書 #読書記録#books #bookstagram#丸山圭三郎.#森博嗣