時々空中へ舞ひ上がつてゐる。

好きなものについて考え続け脳内迷子のパラノイア雑記

KOIKI。

一部歌詞載せすみません。...誰もが自分のことで本当はいっぱいいっぱいなんだ寂しさに負けそうになって明日がこわくてそれでも優しさを振り絞ってゆく.世界が浮き足立ってもあなたが泣いてたらしょうがないこんな時笑えるジョークをひとつくらいはひねり出して呆れて笑うあなたのそばでずっと小粋でいたいのだ.「KOIKI」...#赤い公園#津野米咲

『小説 東のエデン 劇場版』神山健治 『フィルムコミック 東のエデン』(8月23日記)

『小説 東のエデン 劇場版』神山健治『フィルムコミック 東のエデン』.お久しぶりです。夏休みなのでご容赦ください。間もなく通常運転予定です。.そう、ジャケ買いです(違う)。キャラデザ最高。相変わらずウミノ先生ステキなお仕事。こちらの表紙は主人公滝沢朗。ウミノ先生の中では森田さん(ハチクロ)と二階堂くん(3月のライオン)の同一線上におられるようなのだけれど。そして相変わらずアニメも映画も未見ですみません。我の中で滝沢さんが若き頃のあの方で勝手に脳内再生されておるため勿体無くて(何)。ミリタリージャケットも似合うけれど白シャツスーツ姿がもうマジでツボるわー(だから何.攻殻機動隊観てみたいなと思ってた流れで最近知りました浦島だなー。面白かったです。アニメ放映は2009年とのこと。フィルムコミックの方はアニメ版。小説の方はアニメ放映の続編として出た映画二本分を監督が纏めたものだそうで。舞台は2011年でその当時の少しだけ先の話。.「百億円やるからこの国を良くしろと言われたら、その金、どう使いますか?」..この国における"ノブレス・オブリージュ"について延々考える機会になったのでこれは読んで良かったと思いました。あと、たった百億足らずでは結局国を変えることなどできないのではないのだろうかと思ってしまったわたしはきっと国の再生などに携われる能力が不足しているのだろうなとも思いました(想像力の欠如)。いや、ほら、最近マスク配布したら260億とか百億単位の額がカジュアルに消費されてるしまるでみすみすドブに捨(自粛..ではタイムリーに引っかかった一節を。百億ゲームに巻き込まれたセレソンNo.1物部大樹の言葉。セレソンNo.9滝沢朗からじゃあ物部さんが総理大臣になってよ と言われたのを拒否した後の発言。.「今や総理大臣など、ただの生贄に過ぎない。"自由"を手に入れ、"不自由"になった国民のストレスの捌け口と言ってもいい」.「無責任で何も自分で決められないくせに他人の意志で動かされるのは嫌う」この国の民の自由を気づかれないように奪うこと を物部はやろうとしてたけれど。.これ読む少し前にエーリッヒフロムの『自由からの逃走』を再読してて"自由"とは をつらつら考えてたとこだったので個人的にもタイムリー。文句を言って終わるのも自由で、自分には何がどこまでできるのかを考えて行動するのも自由で。自由への恐怖を回避したいがために他者に依存し不自由にならざるを得ず文句しか言えなくなっているひとも一定数いるとかぐるぐる。..#books#bookstagram#神山健治#羽海野チカそしてセレソンNo.10結城亮君の見た目が完全にスカイクロラのカンナミ。

『高瀬舟』『高瀬舟縁起』森鷗外(7月23日記)

『高瀬舟』『高瀬舟縁起』森鷗外.とある事件で『高瀬舟』を思い出したので再読。喜助の思いはもしかしたら誰もが感じるものなのかもしれないとは思う。罪を犯したがために自分の人生において初めて得られたまとまったお金(島流しの際お上から受ける当座の生活金)のことを話す様子や、弟殺しをしているのにも関わらず心が晴れやかであるというのが微妙に喜助さいこぱす説を生み出したりもしてるけれど鷗外は別にそのようなつもりをしていた訳ではなさそうで。.自作解説である『高瀬舟縁起』では、「どんな場合にも人を殺してはならない。」としてからこのように語っている。ーーーーここに病人があって死に瀕して苦しんでいる。それを救う手段は全くない。そばからその苦しむのを見ている人はどう思うであろうか。たとい教えのある人でも、どうせ死ななくてはならぬものなら、あの苦しみを長くさせておかずに、早く死なせてやりたいという情は必ず起こる。ここに麻酔薬を与えてよいか悪いかという疑いが生ずるのである。その薬は致死量でないにしても、薬を与えれば、多少死期を早くするかもしれない。それゆえやらずにおいて苦しませていなくてはならない。従来の道徳は苦しませておけと命じている。しかし医学社会には、これを非とする論がある。すなわち死に瀕して苦しむものがあったら、らくに死なせて、その苦を救ってやるがいいというのである。これをユウタナジイという。らくに死なせるという意味である。高瀬舟の罪人は、ちょうどそれと同じ場合にいたように思われる。ーーーーー..#読書#読書記録#books#bookstagram#森鷗外#青空文庫.それにしても。安楽死、尊厳死と優生思想を混濁させるなよそれを願った本人の思いを利用しているだけではなくその方の個人の尊厳など丸無視した単なる殺人ではないか。

鷗外忌だったのでつらつらと(7月9日記)。

さて。鷗外忌です。今回は読書記録というよりは鷗外のひととなりなどに想いを馳せたりしました。ずいぶんと偏ってますけれど。だらだらと長文雑記です。.森於菟さんは鷗外の長男。『ヰタ・セクスアリス』を鷗外は成人前だったこの方向けに執筆されています。そして「性欲」という言葉を文明の開化した明治の世に新しく紹介し定着させたのは鷗外だったりします。.あくまでも医学的な見地で冷静に自己の欲求や行動を観察していまして、いわゆるエロかったりなんだり女性に対するご無体な言動だったりというR指定ではない淡々とした作品となっています。そして、そこらへんの男どもが常にムラムラと考えているオンナへの欲求があまりにも薄い自分は医学的にどこかおかしいのかしらんと独りごちたりしています。.結婚したら妻を大切にし他に走らないこと と思っています。が、結婚していないのであればいろんな面倒ごとに巻き込まれないようにひとりに絞った付き合いは避けること(風俗だけにしとけ)というような、現代においては「女性蔑視」じゃねぇかと脊髄反射したフェミ嬢から吊し上げをくらいそうなことを言ってるのですけれど。.江戸時代末期から明治に生きていた男性の考える女性というものは現代の感覚からするともうそれは扱いがひどい。そもそも同等ではないという感覚が当時の常識であり、ひとりで生きていくには自分の身体を資本にしなければ難しいいわゆる下層とされていた女性。ドイツ留学を経験した鷗外はむしろ日本に帰国してからは女性の権利や社会進出に肯定的な目を向けているひとでした。.樋口一葉・与謝野晶子への称賛、平塚らいてう主宰の「青鞜」会員に家族がなることも賛成、女性解放運動には応援的立場を積極的にとられています。.あ、鷗外はマザコンだったのではないかと言われてはいますけれど、我が思うにお母さんのキャラが強烈すぎるのと、親への尊敬の念と大切に思う気持ちとマザコンとは少し違うのではないかなぁと思っています。..宮本先生も仰ってましたが、もともと医者の家に長男として生まれ立身出世を強く望まれたいわゆる「良い家柄」出の鷗外は、周囲からの期待を一身に背負い軍医としてですが日本の中枢で生きていこうとし、自分の意見と対立する者に対しては喧嘩上等だごるぁ と論争を仕掛けまくる方でした。.『ヰタ・セクスアリス』が発禁を食らったのも、官僚が何書いてんねん と鷗外を面白く思ってない側からの圧力的な処分ではとされてます。軍医としては頂点の位に登り詰めたのですが、その上に存在している”陸軍”上官との意見の相違や生理的に合わない問題で幾度となく激しい対立をし、何度も辞職を願いでたりしています。『阿部一族』はそこら辺を踏まえてたりするのかしらという説もあります。.「晩年のわずか五年間 鷗外 栄達がのぞめなくなると 急に肩の荷が降りたのだろうか?」「小説家 森鷗外が俄然輝きを増す」.エレカシ『歴史』です。鷗外は1922年(大正11年)7月9日に亡くなっています。1916年に陸軍省医務局長を辞していますが、栄達がのぞめなくなったから というのを補足するとおそらくもうこんな上官の下でやってられるかと本気で思ってたのが頂点に達したのではと思われます。.そして、明治の時代が終わり、1912年(大正元年)の乃木大将の殉死に衝撃を受けてから歴史小説に取り組み始めています。宮本先生はおそらく1912年から5年間に生み出された作品群のことを好んでいらっしゃるのだろうなと思われます。.「ただの男になって死に様を見つけた」鷗外は遺言に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と残し、お墓も「森林太郎ノ墓」とだけ記されています。死ぬ瞬間は「アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス」としています。陸軍の栄典などは固辞する、と。青空文庫にも『遺言三種』が収められていますので気軽に読めますよ。.1911年に書かれた『妄想』、以前postしたことあるのですが、その当時の鷗外の心境がよく描かれていて面白いです。すでに自分を晩年、人生の下り坂にいる者としてこれまでの自己を振り返っています。.そういえば明治時代の作品、やたらと英単語を多用しまくったりしてて現代の我々が一読すると、うはーカタカナ語好きだねぇルー大柴みたいwと思ってしまいがちですが、そもそも「日本語にどうやって訳したらしっくりくるのか・どの言葉を充てるのがよりふさわしいか」を考え続け実践してはやり直しを当時の作家たちが繰り返しチャレンジしていた時代でありますし、新しい概念が西洋から流れ込んできた時代でもありますので、まぁ自然とそうなるのは容易に想像できますよね(喧嘩腰?..#森鷗外#森鴎外#鷗外忌#エレファントカシマシ#宮本浩次

『ナマコ天国』本川達夫:作 こしだミカ:絵

『ナマコ天国』本川達夫:作 こしだミカ:絵.娘(小4)が学校で借りてきた絵本。見た目からエグい。.わー、これどんなお話なのかしらね と海鼠たちの愉快な物語を想像してみてみたらガチな海鼠専門書だった笑う。我、こんなに海鼠のこと知らなかったのね…と感慨に浸ってしまったわよ何これ。.目も鼻も耳も心臓も脳もない基本動かない触り続けるとドロドロに溶けるが再生するまっぷたつに切ったら2匹になる尻穴で呼吸する魚に襲われ体に穴を開けられたらそこから腸を発射してそれが食われてる間に逃げる世界に約1500種存在する..海鼠、なぜ地球上に存在してるんだろう(果てしない宇宙が脳内に広がる我..で。どうやって食べたら美味いかとか若干沖縄調のナマコ天国の歌(何)とかも書いてあったのだけれど。「ナマコ文学」というコーナーでこちらが紹介されてたので抜粋。ーーーーーーー安々と 海鼠のごとき 子を生めり(夏目漱石)ーーーーーーー海鼠手を生じ足を生じ 両眼(まなこ)を微かに開きたる時化して子規となる.世の中を かしこく暮らす 海鼠哉(正岡子規)ーーーーーーー.文豪たち何言ってんだろう(おい古事記にも海鼠出て来るんだって。アメノウズメが小刀で海鼠の口を切り裂いたから触手が細かくなったのだ とかなんとか..なぜ存在してるんだろう(まだ言う..#読書#読書記録#books#bookstagram#本川達夫#こしだミカ#絵本#児童書

『湯ヶ原ゆき』『雑談』国木田独歩

『湯ヶ原ゆき』『雑談』国木田独歩.『湯ヶ原ゆき』はおそらく独歩唯一の紀行文。明治40年7月発表の作。療養目的の旅で、このころすでに病がだいぶ進んでいて、実際出発時点からずっと熱発しっぱなしでさぞかししんどそうか と思いきや、その中身はあまり病気が云々関係なく、療養に付き添ってくれた義母(治子の母)の様子描写ばっかなのが面白いです。..元来お喋り好きな独歩、列車道中の会話を楽しもうと思って景色が変わるなど事あるごとに義母に話しかけては「さう?」「さうですか。」「ハア。」「さうねえ。」で終了され 「これでは何方が病人か分なくなつた。自分も断念(あきら)めて眼をふさいだ」。.義母を称して曰く「沈々黙々、空々漠々」「悠然、泰然、茫然、呆然」。果てしない気持ちに襲われた独歩は「對話」ということ、「大袈裟に言へば『對話哲学』又たの名を『お喋舌(しゃべり)哲学』に就て」考え始めてしまいます。が、あっさりばっさり「喋舌る事の出来ない者は大馬鹿である」という考えが真っ先に浮かび、しゃべれるのであればこの際相手が泥棒だって構わないものとかなんとかもやもや考えてるうちに眠くなってきたり。.近くに座ってる老夫婦の真似をしてお弁当を食べようと買ってみたものの、独歩はあまり食べられず。しまった食えないなら何故酒を買わなかったのだ俺 と後悔して「酒を買へば可かった。惜しいことを爲た」とつぶやいたら「ほんとに、さうでしたねえ」と相槌を打ってくれたのでハッと義母の方を向いたら「義母(おっかさん)は今しも下を向て蒲鉾を食ひ欠いで居らるゝ所」で。←別客の会話を聞き勘違いしたしおっかさんは食べるのに夢中.途中乗り合わせてきた巡査二人を「痩(やせ)て弱くなつたやうな」張飛と「鬚髯(ヒゲ)を剃り落して退隠したやうな」関羽と勝手に心の中で言い出したり馬車の喇叭(ラッパ)、好きだなー とか回想しまくったりしてるのですが結局宿に到着する手前のとこで話は終わっています。..『雑談』は明治40年10月の作です。その中で『湯ヶ原ゆき』発表の後日談的なものもお話しされてます。そこを抜粋してご紹介。振り仮名つけてます。どうぞ。.ーーーーーーー義母のことを『悠然茫然泰然呆然』と書いたが、まさか分る氣遣いもあるまいと、知らん顔で濟(すま)してると、惡事千里、何時の間にか、義母の親戚や知人の間に知れて、「悠然茫然泰然呆然」が、義母の通り名になつて了(しま)つた。するといつの間にか其が義母の耳へ入つたとも知らず、此の間妻を里へやると、散々の御不興で、顔を見ると突然こづき廻さん許(ばか)りの剣幕に、何も惡氣があつてやつた譚(わけ)では無いから、後で良人(うちの)をお詫びによこしますと云ふと、妾(わたし)の前へでも來やうものなら、横腹を剜(えぐ)り飛ばしてやるからと、大に鼻息が荒かつたさうだ。今では旣(も)う何でも無くなつたが、斯う云ふ話しをまた小説にでも作つて母に見せたら、何と云ふだらう。一寸面白いだらうと思ふ……。ーーーーーーーー.独歩は翌年の6月に亡くなっています。あああ、このときはまだ悪だくみ(そうなの?)する気力があったのだねぇと思うとしみじみ。..#読書#読書記録#books#bookstagram#国木田独歩

2020年11月9日。

さて。すっかりこちら放置気味ですみません(誰も見てねぇな)。

お察しの通りころな関連で心境や周りの変化が見られ。本は読めどもその事についてがっつり考えたりするよりも他に考えることが増えたというかでロクに感想など書いてませんね。。。

 

そして我の中でSpotifyを解禁したせいで気楽に日記感覚で今聴いたり考えたりを少しずつ吐露できるついったの方でつぶつぶしています。

 

でも最近寒くなってきたのでPCに向かう機会も増えるかも(布団にくるまりながら今書いているところ)。とりあえずインスタのpostを転載する方法をも少し練りたいなぁどうすればいいのかなぁ(無知)。

『再會』国木田独歩

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『再會』国木田独歩.こちらの詩は『獨歩遺文』に収められたもののひとつです。.激しい感情を心の中に持っているのにも関わらず、その文章ではどこかしら遠いところから静かに自身を俯瞰する一面も持つ方です。他人事というか客観的に見つめているだけでそこから先の感情が白いというか。ここで再会した方とも直接何か言うでもなく、ああ、元気そうで何より と思ったのでしょう(激しい既視感)。←誰感情を自ら抑制している というよりは、無意識のうちにスイッチが切り替わるというか自己防衛の為せる業というか。ね。..(本来は字下げなどしてありますが体裁の都合上頭揃えてしまっています。わかりづらくなるので字下げされてないとこで一行空けましたすみません)ーーーーーーーーこの世にまた君と遇ふことあらんとも思はざりしに.忘れねばこそ面影の早くも君を見つけぬる哉.浮世の巷に遇ひ見れば君はをさな子背に負ひてよき母親となられたり.君と別れてはや四とせ四とせが間.世のうきふしに遇ふ毎に別れし君を思ひ出でける.我は昔にかはらねど君は母御となりにけり.そのをさな子を背に負ひて玉川の清きほとりそのふる里に歸り行け.われは都に別れし君を思ひつゝ.世のうきふしに浮世のちまたにさすらはん.この世にまた君と遇ふことあらんかもーーーーーーーー..#読書#読書記録#books#bookstagram#国木田独歩

『十年前の田園生活』国木田独歩

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『十年前の田園生活』国木田独歩.さて。本日6/23は独歩忌です。という訳で独歩を読みます。こちらは明治40年に出されたものです。このときから十年前、そう、ちょうど「渋谷村」に住んであれこれ考えてたころを回想されてるお話です。明治29年初秋から翌年春近くまでの田園生活。彼の武蔵野です。『武蔵野』に描かれている話はこの時期に得たものです。.「いろいろな事がありました」。当時の独歩は信子に逃げられ「激しい煩悶になやまされて」孤独な一人暮らしを渋谷村ですることを決め、一日の半分を独り散歩に費やしていて、そのころ知り合った田山君たちをも散歩に巻き込み、詩人としての運命を突き進む決意をしています。女中を頼んだら「別荘」というので立派な旦那がいると思ってやってきたのか、僕を見て三日ほどで消えていなくなったとかなんとか。猛烈な孤独感の割に生活自体は楽しかったのだ と振り返ってはおられますが。.そのころに書いた日記です と紹介されているのをそのまま抜粋(振り仮名入れました)。明治30年1月14日に書かれたとのこと。長いです。.ーーーーーーーーーー嗚呼われは此孤屋(このこおく)を愛す。今われ獨り住む、人の聲あたりに聞えず。世の波の音、聞くべくもあらず。たゞ梢を渡る風の音の遠く聞ゆるのみ。たゞ雪融て落つる滴聲(てきせい)の軒をめぐるのみ。あゝ彼の遠き音は冬の夜寒の聲なるかも。われ此聲を聞けば遠き國の戀人が音信を聞く心地して哀感を催す。われ實に此孤屋を愛す。聲はりあげて歌はんも心のまゝなり。聲はりあげて泣なかんも心のまゝなり。聲はりあげて祈らんも心のまゝなり。われたゞ獨り此野中の孤屋に坐す。われ今こそ赤裸々のわれなり。遠き友を思ひ、過ぎし昔を思ひ、老ひたる親を懐ひ、戀の夢を思ふ。天地悠々の感自(おのづ)から沸き、哀々たる情自然に發す。嗚呼われ此孤屋の獨坐を愛す。夜半獨り眠らず孤燈に對(むか)つて坐す。泣かず、歌はず、祈らず、且つ自から淚數行下る。嗚呼われ此孤屋の獨坐の默思を好む。ーーーーーーーーーー.声を張り上げたい気持ちでいっぱいだったのにいざ暮らしてみると泣き叫ぶでもなく歌うでもなく、ただ涙しか出ない、と。.もうねぐるぐるぐるぐる考え続けてたのよねホンマごはんいっぱいたべていっぱい寝て長生きして欲しかったわ…。←独歩に関してはついこればっか言いますよ..#読書#読書記録#books#bookstagram#国木田独歩#独歩忌