時々空中へ舞ひ上がつてゐる。

好きなものについて考え続け脳内迷子のパラノイア雑記

煙草とスと宮本先生。

宮本浩次先生が禁煙されてからの声の驚異的な伸びを聴いて、改めて日々痺れているステンシルである。すごく好き。でも前の声も好き。ええ、全部好きなんですけどね(狂)。

煙草止めてから体調がいい、声が出る と素直に仰られていた。止めたくなかったんだけどねぇとも仰っていたのだが。

 

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ステンシルも。"20歳になったら大人"ということでとりあえず飲酒喫煙も嗜んだ。

大人ってなんでしょうね。簡単な線引きですね。

 

残念なことに酒は身体に合わなかった。グラス1杯のワインで酩酊し吐く(おい)。香りや味などとても惹かれるものがたくさんあるのに。もし人並みに嗜めたら、付かず離れずの距離感で一生の友になれていた気もする。これは今でも少し悔しい。楽しく崩れずに飲めるひとが素直に羨ましい。酒を飲んでテンションや性格が変わるのをよしとする甘えたひとは嫌いだがこれはまた別の話。

 

煙草は10年続いた。1日1箱ペース。

30になったある時、あ、もう止めよう と思ってそのまま吸わなくなった。

基本、身体に良くないものであるとは思う。確実に。寿命ではなくQOLの問題。

 

治療が必要な程の依存、止めたくても止められない状態というのは、精神がコントロールできなくなっているのだと思うので、ご本人自身とてもお辛いのだろうと察する。自己否定の連続はキツい。

だがそれ程でもない場合。自分の身体を長く保っておきたい理由が明確に存在するようになった時、煙草は割とあっさり止められるのだろうと実体験から思う。

 

 

あ、あと最近の喫煙率が減ってるの、世間の風と、吸う場所の減少ってのもあるのだろうが、スマホの普及と定着が大きいのだろうな、としみじみ思う。

何もすることのないちょっとした時間の手持ち無沙汰を埋める役割がとても大きかった。バスを待ってる時、次の講義までの少し空いた時、ぼーっとしている時、店でコーヒーを待ってる時。今はスマホが全てそれらの面倒を見ているのではないのだろうか。

昔は缶コーヒーと煙草で両手が塞がっていたもので。なんかレトロだなぁ。今もそういう若者いるのかしら。

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ここからは完全にステンシルの勝手な想像。

 

つい最近までの先生。”生きる”ということにずっと前を向いて歌い続けていたようでいて、実は死に向かって生きていて。”死ぬまでの間は”俺は生きると達観…諦観の中淡々と生活を送り。

絶望はしきれないので、何やってんのかな俺と思いながら憂鬱な日々に流れ。

勝負をしたい、熱くありたい、愛したいと思いながら全てのことに執着できず、その代替としての蒐集に狭く深く没頭し。蒐集している自分に安心し。

生きていくのならばやるしかない、前に行くしかないと言い聞かせて自身に課した役割をひたすらこなし。現状と自身の思いとのギャップは深い闇とならず、苦悩するのでもなく。ただ淡白に幸せな”普通の日々”を送る。

そして、そういう自身を後ろから離れたところで静かに見ている。

 

絶望しきれないというのは、恐らく非常に客観的に自身を見つめ分析することができるからなのだろう。

生きてると恥ずかしいことがたくさんある と思ったとしてもそれに飲み込まれることはなく。

もし、もっと自己陶酔力が強かったらどうだったか…? と思うと。

 

 

どうやら現在の先生は本当に前を向いて人生を歩んでおられるようで。

”自身の人生どう過ごすか”を静かに再構築されたのだろう。

どれだけ聡明叡哲な方だ。ご自身は自覚されていないかもしれないが。

 

健康に気を配られるようになって。食べ物とか、運動とか。大変かわいらしいのでよい。

このままドーンと行ってほしい。

今先生が健やかに生きておられることがもう全人類の宝なのである。先生の未来に幸多かれ。