時々空中へ舞ひ上がつてゐる。

好きなものについて考え続け脳内迷子のパラノイア雑記

『子規居士と余』高浜虚子

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『子規居士と余』高浜虚子.亡くなるときまでずっと正岡子規の側にいた虚子。子規との出会いから別れまでが淡々と、でも生き生きと(ってのもヘンだけど)描かれています。仲間とのやり取り、会話。とても仲の良い様がうかがえて。..虚子が河東碧梧桐と共に京都の第三高等学校へ入学したことから、京都について少し描かれている。「聖護院の化物屋敷という仇名のある家」に下宿していた虚子。高等学校制が変わったという事ですぐに仙台の第二高等学校へ移るのだけど。なんかね。聖護院、吉田とかのあのあたり、今もありそう。あるあるですね。学生の坩堝あるいは魔窟(失礼よ.そこに子規がふいっと現れ、あちこちを訪れている。京極の牛肉屋、南禅寺、柊屋、嵐山、太秦。「子規居士の浮きやかに晴れ晴れとしていた事は此京都滞在の時ほど著しい事は前後になかったように思う」。.やがて、病に倒れる子規。あるとき、虚子は「自分の後継者」になってほしいと子規から言われる。それを虚子は結局は断るのだけれど。一番近い存在だからといって後継者に選ぼうとするのはやや幼稚な考である、と。「決して一小虚子を以てこれに満足すべきではなくして、広くこれを天下に求むべき」だと。.最後は夜中、家人や虚子が別室で休んでいる間、ひとり静かに息を引きとり。虚子が碧梧桐らに知らせようと家を出たら、「旧暦十七夜の月が大空の真中に」あって。.「その月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰りつつあるのではないかというような心持がした」。.【子規逝くや十七日の月明に】.子規の母親から、升(のぼ:子規)は清(きよ:虚子)のことが一番好きだったと言われる。その言葉を思い出すたび、深く考える虚子。「余の生涯は要するに居士の行為に辜負(こふ)した生涯であったのであろう」。「こふする」とは「そむくこと、裏切ること」。虚子は1902年に俳句の創作を辞めている。以後は小説を書くのだけれど。俳壇に復帰したのはその8年後で。その間、子規の思いを受け取れなかったことをずっと悔やんでいたのか、それとも。..#読書 #読書記録#books #bookstagram#高浜虚子#正岡子規#青空文庫余談。我家で長いこと使っている大ぶりの勉強机と椅子がある。椅子には「第三高等学校No.288」のプレート。旦那が座面の布を何度も張り直し(修理に出して)大切に使っている。娘が生まれ、椅子の上でボンボン跳ねるためスプリングがぼこぼこに飛び出てもう限界。また直すさ と旦那は事も無げに言うけれど。