時々空中へ舞ひ上がつてゐる。

好きなものについて考え続け脳内迷子のパラノイア雑記

『文学的饒舌』織田作之助

織田作は現代に生きていたらきっとロックしてる(何度でも言う)。

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『文学的饒舌』織田作之助.さて。オダサクは昭和22年1月10日に33歳の若さで亡くなりました。結核なのですが。ヒロポン依存激しく、もしかしたらクスリで弱り切った身体にいらぬ菌が入り込みもう免疫力で太刀打ちできなかったのかなと思うと悔しさが止まらないわなどと織田作に想いを馳せてる最中にニールパートの訃報(まだ言います)でより凹んだ我です。いやこちらは長く闘病されておられたのだけれど。もうね。.というわけで晩年(と言っても32,3歳)の織田作の思い。.「新人が登場した時は、万人は直ちに彼を酷評してはならない。むしろ多少の欠点(旧人から見れば新人はみな欠点を持っている)には眼をつむって、大いにほめてやることが、彼を自信づけ、彼が永年胸にためていたものを、遠慮なく吐き出させることになるのだ。起ち上りぎわに、つづけざまに打たれて、そのまま自信を喪失した新人も多い。新人を攻撃しつづけると、彼は自己の特徴である個性的表現を薄めようとする。だから、まず彼をほめ、おだてて、思う存分個性的表現を発揮させるがよい。けなすのは、そのあとからでもよい。」.我は、やはり織田作はとてもまともなことを言う方だとしか思えないのであるよ。当時の評価というものを目の当たりにしていないので不思議でしょうがなくて。特殊な時代だったせいだけなのかひととなりを面白おかしく取り上げられたのか。.戦時中ゆえ『青春の逆説』が発禁になったり、「処女作以来今日まで、つねにたたかれて来た。つねに一言の悪罵を以て片づけられて来た」りと、世間の自作への評価について常に逆風を感じておられて。..「僕は僕の作品の一切の特徴を捨ててしまおうと思った。僕がけなされている時、同時にほめられている作家のような作品を書いてやろうとさえ思った。そのような作品を書くことは、僕には容易であった」。.でも、結局そうはしなかったのであるよ。「売れる」作品を書くのではなく、自分の思いのまま作品を書き続けた、と。で、「相変わらずたたかれて、相変わらず何くそと思って書いている」。..そうなのよね。でもどうなんだろう、もしそこで確実に万人に受け入れられる「売れる」作風のものをあえて世に出していたら、織田作はもっと長生きできていて、のちに自分の思いを詰めた作品といわゆる「売れる」作品とが調和したとんでもない超名作を生み出していたのではないのかな、とか思うとね。..くっ。危ないとこだった先生30歳での方向転換への決意マジ慧眼。しかしかぶるなぁ(何が)。でも、もしこれが先生ひとりだけのことだったらどうだったかホンマ仲間がいてくれてよかった守らねばならない存在&守ってくれている存在てもう激烈超大切(だから何が)。..ではとても心に残る一節を。「人間的にいわゆる大人になることは作家として果して必要だろうか。作家の中には無垢の子供と悪魔だけが棲んでおればいい。作家がへんに大人になれば、文学精神は彼をはなれてしまう。」.織田作、ホンマそれな。←語彙力3グラム..#読書 #読書記録#books #bookstagram#織田作之助#青空文庫.ああ、でも織田作はもし売れる作品を書いて爆売れしてしまっていたら、より忙しくなってさらに睡眠時間を削らんとすべくヒロポンにもっと依存していたかもしれぬ。うぬぬ。あの時代にタイムマシンで戻れるなら簡単に薬屋で買えた流通制度と結核菌を抹殺したい。