『読書の価値』森博嗣
ーーーー
何しろステンシルは読んだ内容をほっといたらすぐ忘れてしまう。森先生のように一度読んだら内容を忘れないから本は捨てる は到底できない。心に刻み続けておくというのがどれほど難しいことか。
自分が自分の言葉で出力することが記憶しておくことの唯一の布石というか。考えて、言葉にしておくと、そのことはあまり忘れないものである というのは普段の日記でも同じである。忘れていても、記録を見れば記憶は甦る。
森先生は面白い本を読んでも、その内容や感想を他者に開示する必要はない と仰る。本は人に薦められて読むものではない、自分が何を選ぶかだけだということ。本のタイトルさえ示す必要もなく、自分が面白い本を読んだ という思いだけを持っていれば良い と。一貫して閉じておられる姿勢に痺れるのであるが。
ステンシルの場合。
たしかにひとに薦めるのでも共感を得ようとするのでもなく、読書感想文てのでもない。出力記録は自分だけが持っていればいいのではないか?
ただ、自分が取り込んだ言葉を考えて出力して、自分が何を思うのかを再認識し、また他の方々が何を思うのかを知りたいから自己開示もしたい と思っている。その方が何を思ってこの本を読んでいるのかを知りたいのでひとの本棚も見る。
森先生の仰られている「本というのは、人とほぼ同じだといえる」でいろいろ腑に落ちた。他者との出会い、コミュニケーション。未知なる考えとの邂逅。
こどもが産まれてから、ついこの間まで自分のための読書はほぼゼロであった。ここまで読まなくていられるならもう今後も必要ないのでは とも思っていた。
昨年秋に覚醒したステンシルが今思うに、当時は他者との関わりが困難だったのである。内に篭る日々。「これ以上別のものに興味を持ってしまったら、関わり出してしまったら身体がもたない」と思っていた。
いや、他者との関わりについては元々がそういう考えに近い。疲れないための自己防衛。
だが、やはり好きなものは好きなのである。ひとも本も。矛盾している。閉じきれない自分が存在する。
ひとにお見せするというのも、本を読むというのも、コミュニケーション。
今出来るようになったというのは気力と体力が満を持した ということか。ここからがRESTART。