時々空中へ舞ひ上がつてゐる。

好きなものについて考え続け脳内迷子のパラノイア雑記

ピアノに触れるということ。入り口と「先生」の話。

最近は多様な需要に合わせた入り口が増えている。いわゆる「ポピュラーピアノ・大人のピアノ」とか期間限定「一曲チャレンジ!」とか「Bohemian Rhapsodyを弾こう!」とか。他にも色々。良きかな。

 

一昔前は、ピアノといえば「週1回30分程度先生のマンツーマンでクラシックレッスン」か「子供限定グループレッスン」がほとんどであった。こんなのやってみたいな という多様なニーズに応えられるだけの土壌がまだ少なかった。

いわゆる「音楽教育」「人材育成」に力点を置いてて。

 

バイエル、ハノン、ツェルニーソナチネ ~ っていういわゆる王道「ピアノ教室」コースを望んでいないひとも世の中に大勢いる。

その一昔前の「ピアノを習うこと」に対するハードルの高さが今もまだくすぶってる気がする。もっと気軽に皆が自由に好きなように触ればいいと思う。教室内容も多様になればいい。受け皿が多いほど裾野は広がる。もっと日常になればいい。

 

 

困るのは、「下手の横好きでも好きなことをやれたら嬉しい、満足、幸せ」というひとたちを、故意にでも無意識にでも、排除駆逐しようとするヤカラの存在。

 

それは違う、邪道だ、そんなことも知らないのか(あるいはできないのか)素人が、などごちゃごちゃ「あるべき姿」を言ってダメ出しする専門家やカブレもんがにょきにょき生えてるのはどこの世界でも同じ。スポーツ、勝負事、各種お稽古事、食べ物、読書、写真、芸術、生活スタイル。んー、「なんとか道」って道のつく奴とか。

ひとを落とすことで自分の立ち位置を確認したがる不安定な奴ら。これ、古参VSニワカ論争にも似るけれどそれはまた別の話。すぐ話が逸れそうになるな。

 

 

 

浅い深いはひとそれぞれでよい。きっかけはなんであれ、楽しいと夢中になって、続けたい、いつも触れていたいと思えるようにして、そのひとの人生に彩りを与えることがプロの仕事なのでは?

 

そこから新たなジャンルに興味が広がったり、先生みたいになりたいとなったり、自分はバリバリテクニックを磨きたいから専門的に学びたい とかそれぞれな展開をしていくと思うのだけれど。また、その世界の発展にも繋がると思うのだけれど。

 

嫌になってしまえばそれぎりで。芽を潰す・門戸を閉ざすセンセイ、まだまだいそう。どれだけ自分が偉いというのか。ひとの人生に口出しができる権利が君にはあるというのか。

お客様は神様だろという話ではない。そもそも人間は年齢、性別、経験値、職種関係なく対等・平等だということを間違えてはいけない。

 

 

 

あと、どれだけの情報を自分の脳内にインプットできるかで、アウトプットの精度が変わってくると思っている。表現力も自ずと変わる。もっとオールラウンダーな先生が増えたらとよいと思う。もちろん自分の確固たる得意専門分野はしっかりあっての話。

 

これらは今「先生」と呼ばれているその道のプロについての話。

自分の知っていることを知らないひとに伝える役割は、あらゆる立場のひとが担えばよく、もっと敷居は低い方がいい。「教える」ではなくて。見せる、紹介する、伝える、なんてぇんだろな。そして世界に楽しい・面白いが広がればよい。

 

 

 

なんだかとりとめなくなってしまった。どこがピアノの話なのか、と。

自分は先生にはなれないという強い自虐から来ています。まずは自分が確たる技術を手に入れなければ話にならない。すみません。

 

 

ところで(ここできた)。スの敬愛する宮本浩次先生。

宮本先生の意図するところとは確実に異なるのですけれど。

お言葉の引用。

 

「わたしの日々 わたしの努力

 わたしの希望 わたしの全部

 いつしかあなたを彩る花束になるのです」

 

「先生」とは、関わる他者にこう言えるひとであれ と強く願ったり。

 

宮本先生の人生を遠くから見つめながら、自分はどうあればよいかを常に考えたり。

例え自己満足でも、それが自分の人生を動かす力になっているということ。