時々空中へ舞ひ上がつてゐる。

好きなものについて考え続け脳内迷子のパラノイア雑記

『悪魔』国木田独歩

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『国木田独歩全集 第三巻』より『悪魔』国木田独歩.『悪魔』は明治36年の作。青空文庫さんにいらっしゃらないの。.山中にある田舎の小さな丘に暮らすひとびとの中に、町から越してきた浅海家。その長男である謙輔も後から東京より移り住む。話は、田舎の青年武雄が語り手となり、東京から来た青年謙輔について描写していく形。.東京から来た賢くて立派な青年と、その土地のひとびととの関わりが描かれ。みなが大歓迎し、武雄はひとり面白くなく。いとこの君子の自分への態度がいつもと変わってしまったこともさらに面白くなく。.あるとき、武雄は謙輔が神に祈るところを岩陰で聞いてしまう。.「我心は何故に真実に覚醒むる能はざる乎、神様、此天地を統給う神様、限りなき時と限りなき空間、思へば不思議にして驚く可き此世界に斯生を寄せながらも、我心は何故に常に平然として月に泣き花に笑ふの情と親を慕ひ恋を楽むの心とにのみ其安和を得て満足するか。神よ、神よ、不思議と知りつつも不思議を感ずる能はざる人の心は初より神の定め給ひし約束なるか。」.武雄は、「神は有るかも知れず、無いかも知れない」と言う謙輔の”いかにも”なキリスト者ではないとこや、さまざまな挙動を目の当たりにし、また実際話をしていく中で、”面白くない”気持ちは消えてゆき、やがて親しくなる。.間もなく謙輔はその土地のものへ何も告げずに飄然と東京へ戻ってしまうのだけれど。しばらくして武雄宛に『悪魔』という名の随筆を送ってくる。「この冊子を示して可なる人、君に非ずして遂に誰ぞ」。謙輔が何に苦しみ悩んでいるのかをそこで語る。...「世間に於ける自己ではない、利害得喪、是非善悪の為に心を悩す自己ではない、文学とか宗教とか政治とか、はた倫理とかいふ題目に思を焦す自己ではない、又た親子の愛、男女の恋に熱き涙を流す自己でもない。ただ夫れ一個の生物たる我の存在、此宇宙に於ける存在を感じたのである。」.だが、「悪魔」が来て囁く。『爾に希望ある乎。曰く無し。爾に平和あるか。曰く無し。爾の有するところは唯だ苦悩のみ。千萬人の中の一人も経験することなき苦悩のみ。爾は詛はれつつあるなり。爾は宗教を以て満足せず、爾は花の美、月の光を以て満足せず、爾は實に人の力を以てしては遂げ難きものを追はんと悶くなり。』.「我は安くして犬の如く死んより悶きて天界を失落せる悪魔の子の如く生くべし」。...独歩は初期の書簡や、晩年の口述録『病牀録』などでも語っているけれど。都会にいるときは田舎を恋しく思い、田舎に帰れば都会を思う自分がいる。また、「山林に自由存し都会に事業あり」と自然、自由を歌いたい自分もいれば歴史的な事業を成し遂げたいと思う自分もいる。「牛肉」党「馬鈴薯」党いずれの自己も存在するが、その両方の中にありながら、そのどちらでもない鋭い感性を持ち「不思議」を希求し続けたい、という願い。..浪漫と現実が常に相克していた独歩の矛盾に対する孤独な闘い とスは自分の第一回postで独歩のことを記していますが。友達に恵まれ楽しく過ごしたり、文筆業とは別の「仕事」に打ち込んで事業を成功させようと必死になったり、やはり詩人だとなってみたり、山林に自由存すと言ってみたり、東京が好きと言ってみたり。.果てしないぐるぐる。理解してくれる奴などおらぬであろうという諦念もあったのではないか。友人たちが常に側にいたけれど。側にいたとしても、彼の中の宇宙はひとを深部までは立ち入らせなかったのかも、とか。友人と行動を共にしていても独歩は「ひとりで」歩いていたのかなぁ。..#読書 #読書記録#books #bookstagram#国木田独歩