時々空中へ舞ひ上がつてゐる。

好きなものについて考え続け脳内迷子のパラノイア雑記

『漱石氏と私』高浜虚子

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『漱石氏と私』高浜虚子.まだ漱石祭。つい古くからの友人の話を読みたくなります。高浜虚子は俳人であり作家ですが、雑誌『ホトトギス』を明治31年に継承、主宰となり、漱石の『猫』『坊ちゃん』や三重吉の『千鳥』などを掲載しました。シャボテン党党首。.この作品は漱石からもらった書簡を取り出して追憶している形。漱石とは作家と雑誌主宰としてのやりとりが多いのですが、猫デビュー前の話が満載でたまりません。もうね。小宮豊隆の書いた『知られざる漱石』に悶絶してた我ですがこれはもっとキます。一番古い記憶が明治24,5年のころの大学帽を被っている姿。まだ虚子が中学生の松山のころ。子規と一緒で。以下好きなとこを並べてみますが。.松山にいた漱石。正岡子規が病療養のために松山に帰省してきた明治29年あたり。子規に俳句の出来を見てもらってるときの話。ーーーーーーーーー「子規という男は何でも自分が先生のような積りで居る男であった。俳句を見せると直ぐそれを直したり圏点をつけたりする。それはいいにしたところで僕が漢詩を作って見せたところが、直ぐまた筆をとってそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴って見せたところが、奴さんこれだけは仕方がないものだから Very good と書いて返した。」と言ってその後よく人に話して笑っていた。ーーーーーーーーーでも漱石は俳句に関しては子規の傘下に集まったうちの一人としてその立ち位置を楽しみ、病床の友を大切にしていて。..倫敦洋行時には、子規へ生活の詳細を『倫敦消息』として送ったりしてて。帰国前に子規は亡くなるのだけれど。倫敦から帰国したものの、漱石の家での機嫌の悪さと塞ぎがちなのに奥様が困って寅彦さんや虚子に気分転換に付き合ってやってくれと頼んで。お芝居見物には興味薄だったけれど連句や俳体詩には乗り気でいろいろ作っていたのを見てた虚子が「文章も作ってみてはどうか」と勧めて。次に会った時、愉快そうな顔で「一つ出来たからすぐここで読んで見てくれ」と出してきた作品。分量の多さに驚き、今までの文章とは全く趣を異にしたものだったがとにかく面白く。文章については虚子の方が一日の長ありと思っていたらしく、虚子が指摘したとこは素直に書き改めて。タイトルはまだ決めてなかった。文章の書き出しにしようか「猫伝」としようか決めかねている、と。虚子はこちらが良い、と書き出し案に賛成し。こうして『吾輩は猫である』は『ホトトギス』の巻頭に掲載され、忽ち「夏目漱石」の名が文壇に轟くことになり。.「猫」を書き始めてから漱石はとても元気になった、とか。楽しくてしょうがなかったのだね。虚子も最初は「尊敬する漱石氏が蘊蓄を傾けて文章を作ってみたらよかろうという位な軽い考」だったのにうっかり大人気になってしまって、以降は作家と雑誌発行人としてのやりとりが主になってしまった、と。.で、手紙の中に次々と現れ出す木曜会の面々。もうね、時系列追ってみられるとすぐ隣にいて一緒に過ごしている感覚に襲われますよね(狂.「拝啓 僕名作を得たり、これを『ホトトギス』へ献上せんとす、随分ながいものなり、作者は文科大学生鈴木三重吉君。ただ今休学郷里広島にあり。僕に見せるために態々(わざわざ)かいたものなり。僕の門下生からこんな面白いものをかく人が出るかと思うと先生は顔色なし」(明治39年4月の封書)。三重吉兄さん。もうその年の10月には木曜会が発足してて。.「寒月来って今度の「猫」を攻撃し森田白楊これに和す。漱石これに降る。ただ今『新小説』の奴を執筆中あつくてかけまへん」(明治39年8月の端書)。森田白楊とは草平のことで、寒月は寅彦さん。..なんかね。あまり保存してなかったというのもあるけど42年くらいからのお手紙が少なくて、とのこと。でもよくってよとても堪能できたから(誰目線)。高浜虚子との関係もすこし不思議で面白い。..#読書 #読書記録#books #bookstagram#高浜虚子#青空文庫#夏目漱石#漱石忌